ICから20分紀行「中央自動車道 甲府昭和IC、双葉SA、韮崎IC」編
甲府昭和IC
ICを左(甲斐市方向)に出て国道20号を少し走り、山縣(やまがた)神社北の信号を左折する。すぐ先の左側にある山縣神社は大正8年(1919)に創建された、とても新しい神社だ。
ここに祭られているのは、山縣大弐(だいに)という人物。今はほとんどの人が知らないだろうが、戦前は、「明治維新より100年も前に、尊王論を唱えた人」として有名だった。
この地に生まれた山縣大弐は、儒学と兵学を教える学者として、江戸で私塾を開いたが、幕府転覆を図ったとされ、明和4年(1767)、死罪となった。これを明和事件というが、実際は、多くの藩士が門弟となっていた小幡(おばた)藩(群馬県)の内紛に巻き込まれたと言われている。
双葉SA
武田信玄は戦国時代最強と言われた軍団をつくりあげたことで有名だが、甲府盆地を流れる暴れ川、釜無川の治水に尽力し、甲斐を豊かな国に変えたことでも知られている。その治水技術を象徴する「信玄堤」へは、双葉SAのスマートICから行くのが最も近い。
信玄堤の前に、赤坂台総合公園にある資料館に寄った。スマートICを右に出て信号を左折し、突き当りの信号を左に、中央道を越えて左方面へ、次の信号を右折すると、左側に公園がある。展望塔の1階にある資料館に入ると、丸太と、石を詰め込んだ竹かごを組み合わせた、奇妙な物が展示してある。「聖牛」と言い、これを川岸に並べて堤防とし、水の勢いを弱めたのである。壁には、それをどう並べたのかを示す絵図の写真が展示されていた。
公園から西へ向かうとすぐ国道20号にぶつかるから、それを左折すると、右斜めに入る道が信玄堤への入口だ。駐車場から釜無川の川原に下りると、復元された「聖牛」が並んでいた。
駐車場のわきには、釜無川の水をトンネルで導いた竜王用水が流れていた。江戸時代から現在まで、甲斐市竜王地区(旧竜王町)の田畑を潤している水だ。
用水トンネルの上に、古社「三社(さんしゃ)神社」がある。明治時代の初めまでは、甲斐の国の一宮(笛吹市の浅間神社)、二宮(同市の美和神社)、三宮(甲府市の玉緒神社)から同時に神輿(みこし)がこの神社に集まり、水防の神事を行っていたという(最近、その神事が復活している)。その石鳥居は、幅に比べて高さの低い、甲府盆地に散在する独特の形だった。
治水事業の遺物は、もうひとつある。釜無川に流れ込む御勅使川の流れを受け止め、水勢を弱めた「竜王高岩」だ。
赤坂台総合公園から国道20号に出たら、信玄堤と逆方向の右へ曲がり、双田道の信号で左折して国道52号に入ると、左手に中部横断道の高架が見える。国道が釜無川を越える手前、川沿いの道を左手へ行くと、双葉水辺公園がある。駐車場に車を置いて、公園を歩いて行くと、正面に赤っぽい地肌の、高さ14~15mの断崖が見えてくる。これが「竜王高岩」。信玄は、御勅使川の川筋を変え、それまでもう少し下流にあった合流点をここに移し、対岸の「竜王高岩」に御勅使川の流れがぶつかるようにしたのである。
韮崎IC
ICを左に出てちょっと走ると、一ツ谷の信号で国道20号にぶつかるから、それを左折して韮崎市役所を通り過ぎ、国道52号が分岐する船山橋北詰の信号のすぐ先、左側の高台にある墓地の中に、ドーナツ形の奇妙な石がある(駐車する場所は、信号で左折して、すぐ右折)。
江戸時代は、この穴から霊峰富士を遥拝したが、明治の終わりごろには、その信仰もすたれたと、韮崎市の文化財案内に書いてあったので訪ねたのだが、どうしてもその方向に富士山は見えない。逆方向から石の穴をのぞくと、甲斐駒ケ岳(2967m)の雪の峰が見えたのが、なんともおかしかった。
国道20号を韮崎市役所の手前、武田橋北詰の信号で右折し、武田橋を渡ると、甲斐武田氏発祥の地だ。
まず、橋を越えてすぐの信号を右折し、韮崎西中学校の角を左折して、少し行った左側に甲斐武田氏の祖、信義の菩提所・願成寺があり、右側の韮崎市神山町武田集落の中に、信義の館跡がある。近辺は細い道ばかりで案内しにくいので、地図を見てほしいが、館跡は白く塗った木の柵で囲まれているから、すぐわかる。
韮崎西中学校の角を曲がって道なりに進むと、甲斐武田氏の氏神、武田八幡宮がある。正面に、竜王用水の上にあった「三社神社の石鳥居」と同じような、背丈の低い石鳥居があるが、これは石垣の上に立ててあって、その下は通れないという、不思議な鳥居だ。
武田八幡神社の本殿は天文10年(1541)、武田信玄が再建した建物で、室町時代の特色ある装飾がよく保存されていて、国の重要文化財に指定されている。
神社の石垣に向かって右側の道路わきに、「一石百観音石像」という三角形の板のような石がある。表面がだいぶ風化しているが、よく見ると、7段にわけて観音像が掘り込まれているのがわかる。宝永6年(1709)に、天下泰平を祈願して建立されたという。
韮崎ICを左に出ると、一ツ谷の信号の手前で「七里岩トンネル」をくぐる。トンネルを出てすぐに左に入る道路があるから、それを左折し、すぐまた左折すると、道路は急勾配で山へ上って行く。七里岩ラインと呼ばれる県道だ。
山へ上りきった右側に、韮崎市民俗資料館がある。資料館内には、さまざまな生活用具が保存・展示されているが、ここで見たかったのは、甲州街道韮崎宿の豪商、小野家の蔵座敷だ。明治初期に建てられた白壁の土蔵が、資料館の裏側に移築、保存されている。
資料館と蔵座敷の間には、「韮崎の水車」が移転、復元されている。この台地の東側を流れる黒沢川を分水して回していた水車で、明治6年(1873)から昭和30年(1955)まで、83年も動いていたという「長命」もすごいが、現存する水車としては、日本一の規模を誇っている。この水車、歯車の回転で杵(きね)を上げ下ろす米つき用なのだが、18個の石臼(いしうす)が備えられていて、1日に10俵(600kg)の米を精白できたという、その能力が日本一なのである。
七里岩ラインを台地の端まで行くと、そこには、武田勝頼が、織田信長軍を迎え撃った新府城跡がある。
長篠(設楽が原)の戦いに敗れた勝頼は、甲府からは信州寄りにあるこの台地に「新しい府中」(中心地)を求めて城を築き、甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)の館から移り住んだ。長篠の戦いから6年後、天正9年(1581)のことだ。しかし翌年、押し寄せる織田軍に抗しきれず、武田勝頼は城に火を放って東方へ落ち延び、ついに武田氏は滅亡する。
道路から急な石段を登ると、本丸跡に直行できる。城の北端にあった本丸跡からは、真正面に雄大な八ヶ岳を望むことができる。
季節を変えて再訪した新府城跡の木立は、そこで多くの血が流れたことなど忘れたかのように、咲き誇る桃の花の上に横たわっていた。


















